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牛と生き 牛だけを描く 木版画アーティスト。【前編】

この記事の登場人物

冨田 美穂
木版画アーティスト
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「生きているみたい」思わず子どもが言い出しそうなシンプルな感想が口をつきました。背丈ほどもあろうかという版画に描かれていたのは、皮膚のしわから産毛の一本一本まで緻密に再現された一頭の牛。こちらをじっと眺める瞳は、まるで本物のような潤いをたたえています…
この版画の作者は冨田美穂さん。北海道小清水町にアトリエ兼住まいを構え、牧場のヘルパーとして勤務する傍ら、牛をモチーフとしたダイナミックな作品をリリースし続けている新進気鋭の作家です。

創作のモチーフが生まれた
牧場のアルバイト経験

ご出身は東京。牛を描くという独自のテーマに至るきっかけとなったのは、武蔵野美術大学在学時の冬休み中のアルバイト。仕事場は士幌町の牧場でした。
「幼いころから北海道の牧場は何度か目にしていたんです。私自身、基本アウトドア派なので外で働くのもいいかなと」
初めての牧場作業。加えて真冬。都会育ちの体には相当堪えたと笑いますが、その一方で小さな出会いもあったとか。

「とびきり人懐っこい真っ黒な牛がいたんです。その子が何だか無性に可愛くて。それもあって最後まで頑張れた気がします」
その一方連日のように仔牛が生まれ、牛の死も目の当たりにする。都会には決してない、ヒリヒリするような生命の営みが日常的に繰り広げられていることに、冨田さんは小さな衝撃を受けます。
「ちょうど絵画の方向性に悩んでいた時期。この愛おしく、リアルで、食物の源という宿命も背負う牛を描いてみたいという気持ちが、ふいに湧いてきました」

企業人から一念発起し
酪農と創作の道へ

東京に戻った冨田さんは作風を油絵からよりリアリティを創出できる版画へスイッチ。北海道での経験をもとに作品制作に没頭します。
「版画制作は卒業直前まで続けました。大学卒業後は指輪の装飾職人として東京の企業に勤めましたが、やはり『牛を描きたい』という想いが日増しに強くなって…」

その実現のためにもう一度北海道に渡ろう、そう考えた冨田さんは仕事を辞め、ネットで情報を収集。その際に見つけたのが、興部町という道北の町の牧場従業員の仕事でした。
「そこでは一年半ほど勤務しました。その後は小清水町の酪農ヘルパーの仕事を得、近隣の牧場に派遣されて働きました」

もちろん、その合間を縫っての創作活動にも一層力がこもります。
「ヘルパーの仕事は2014年まで、約7年間続けました。ただ今は版画のほうが忙しくなりつつあるので、牧場主さんに無理を言って週3日程度の酪農アルバイト扱いにしていただいています」

佐伯農場との出会いから広がった
創作の世界とネームバリュー

2007年、冨田さんはとある雑誌で、農場内に版画美術館を開設している佐伯農場の記事を目にします。すぐに牧場がある中標津へ。自分の目で農場のオブジェや版画を鑑賞した冨田さんは、独創的な展示スタイルに感銘を受け、牧場主の佐伯雅視氏に自分の作品の展示をお願いしてみます。

「ダメモトでしたが、結果的には二つ返事で快諾いただきました。そこから今日まで、作品の入れ替えはありますが農場の版画美術館で常設展示させてもらっています」
この頃から冨田さんの作品は少しずつ世に出始めます。
「佐伯さんのネットワークも追い風になり、札幌や深川、京都、中標津などのギャラリーで個展やグループ展を定期的に開催させていただけるように。2019年11月にはベルリンでも個展を開催させて頂きました」

その一方絵本作りの話が舞い込んだり、酪農関係の定期刊行誌や句集の表紙イラストの仕事が決まったり。さらに岡本太郎現代芸術賞入選、道銀芸術文化奨励賞などの栄誉も受賞。少し前まで酪農ヘルパーがメインだったライフスタイルの軸が、現在は創作活動主体へと移行し始めています。
「それでもバイト無しではまだキツイですけどね」冨田さんはあっけらかんと笑います。

描くほどに湧いてくる創作意欲を糧に

東京から移り住んで十数年、北海道で作り続けた作品のモチーフはすべて牛。
「版画のほか水彩など表現は広がりましたが、牛以外の作品はありません。牧場の牛の仕事で牛を間近に見ているから、新たな創作イメージが湧いてくるのかも」

『牛』というより『牛という生命のあり方』を表現する作家にとって、北海道という大地はまさに最高の舞台。模様、表情、体つき、年齢そして性格。一つとして同じ牛はおらず、日が過ぎれば個体は成長し、老いていく。時間の流れが永遠なように、彼女のテーマも永遠に広がっていきます。
「いつか描ききった、やり遂げた、という日が来るのかなぁ。実感がわかないけれど(笑)」そう言って再び彫刻刀を手にする冨田さん。その日はまだまだ遠そうな…

 冨田美穂さんWEBサイトhttps://miho-tomita.jimdo.com/

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この記事を書いた人有限会社シーズ

北海道札幌市で、取材編集やデザインワークに取り組むプロダクション。

インタビューやルポから、各種誌面・webサイトの企画制作などのオシゴトをアレコレと。近々、酒場にまつわる下世話なハナシをまとめた『サカバナ』という本を出版する予定。お買い求めいただいた方から「なにこれ?」と評されること、必至であります。

有限会社シーズ http://www.cs-sapporo.com/