牛・働き手・消費者・次世代の子どもたち…関わる全ての人が幸せになる牧場を目指す
この記事の登場人物
市瀨 晶菜(長女)市の瀬牧場
この記事の登場人物
市瀨 実里(次女)市の瀬牧場
この記事の登場人物
市瀨 みちる(三女)市の瀬牧場
三者三様
三人寄れば文殊の知恵
三矢の訓
昔からこうしたことわざや教訓がありますが、独自の取り組みで明るく牧場を盛り上げる市瀨三姉妹の物語を聞くと、改めて「3人」というチームのバランスや絆、不思議な化学反応に驚かされます。
// プロフィール
市瀬三姉妹 市の瀬牧場
市の瀬牧場の跡継ぎとして働く三姉妹 それぞれ異業種を経験してから就農。三人の個性を活かして牧場経営を盛り上げ、酪農教育ファームの取り組みにも力を入れている
もくじ
火事で牛舎が全焼。復興に奔走する両親を見て育った幼少期
静岡県富士宮市、富士山の麓にある市の瀨牧場。1958年にジャージー牛1頭の飼育からスタートし、現在では搾乳牛350頭、育成牛150頭を飼育するメガファームに拡大しました。
しかし、1991年には牧場で突然の火災が発生し、牛舎が全焼。現在 牧場の代表を務める市瀨晶菜さんは、当時は小学一年生で「家の窓から、オレンジ色に染まる牛舎を眺めていました」と記憶を語ります。
5頭の牛だけを残して全てを失った市の瀨牧場を再建すべく、晶菜さんの父と母は多額の負債を背負いながら新たなフリーストール牛舎を設立しました。
晶菜さん「両親は気丈でした。火事が起きたときは三女のみちるが生まれたばかりで、『なんとしてでも家族を守っていかなければ』と必死だったと思います。特に母は、昼夜問わず頭は仕事のこと。夜中でも牛に何かあったときにすぐ異変に気付けるようにと、熟睡しないようにベッドではなく硬い床の上で寝るほどのストイックさでした。
今思えば生活は苦しくて、学校で必要な文房具も満足に買ってもらえないような状況でしたが、両親はいつも明るくパワフルだったので、私たち姉妹も心はいつも豊かでいられましたね。それに、両親は私たちに酪農を継いで欲しいと言ったことは一度もありませんでした。『自分がやりたいことをやりなさい』と、大学にも通わせてくれました」
社会に出てから再び牧場に戻った三姉妹「自分たちが育った場所を潰すわけにはいかない」
市瀨三姉妹は大学を卒業後、長女の晶菜さんと三女のみちるさんは幼稚園の教諭に、次女の実里さんは自動車ディーラーに就職。実家を離れ、それぞれの生活を送るようになります。
別々の道に進んだ三人でしたが、やはり片時も牧場のことを忘れることはなかったのだそう。父の還暦が迫るなか「このまま誰も家業を継がなければ、せっかく再建した牧場もいつかは廃業することになり、自分たちが帰る家もなくなってしまう」そう考えた晶菜さんは実里さんに声をかけ、考えた末、まずは2人で家に戻ることを決意します。
実里さん「両親の仕事ぶりを見て育ち、酪農の大変さをよく知っていたからこそ、姉に任せようとか、私1人で継ごうとはとても思えませんでした。でも、姉と2人なら協力しながらやっていけるだろうと、まずは手伝いから始めることにしました」
こうして晶菜さんが28歳、実里さんが24歳のときに就農。一般の企業で就職していた2人が牧場で目の当たりにしたのは、会社としての経営方針や決まりがなく、従業員一人ひとりが違う方向を向き、違う仕事の仕方をしているという現状でした。チームワークの意識も低く、頑張る人がたくさんの仕事を背負わされて残業が多くなっているという昔ながらの働き方を変えるところから着手する必要があったのです。
業務マニュアルを整備したり、ミーティングの進め方を変えたり、従業員同士のコミュニケーションの場をつくったり。大胆な改革は時として従業員の反感を買うことも。なかなか理解を得られず、「実里と2人で子牛に哺乳をしながら悔し泣きすることもありました」と、晶菜さんは当時を振り返ります。
2人が就農してから8年。牧場経営を根本から見直す一方、お互いが結婚や出産といったライフイベントを経験し、休職と復帰を繰り返しながら、「やっぱりあの人の力も借りたい…」と、相談をしたのは三女のみちるさんでした。みちるさんは、二つ返事で快諾したのだそう。
みちるさん「三姉妹のなかで子どもの頃から一番牧場の仕事を手伝っていたのは私でした。両親は休みなく働いていて、学校から帰ってきても家の中から『おかえり』と言ってもらえることはなかったので、牧場を手伝うことが家族と繋がる手段だったんです。
大学で東京に出たあとは関東で就職をして、実家からは遠く離れた場所で生活していましたが、やっぱり牧場のことが気がかりで…心の距離は年々近づいているのを感じていました。
姉2人から『一緒に牧場をやらない?』と誘われたときは、『とうとうこのときがきちゃったか』と思いましたね(笑)でも、どうせなら私たち姉妹にしかできない牧場をやろうという気持ちもあり、とてもワクワクしました」
酪農教育ファームを通じて20年後の酪農の未来を見据える
再び実家に集まった三姉妹。経営改善とともに「せっかく牧場を引き継ぐなら、酪農だけでなく自分たちがやりたいことをやりたい」と、新たな試みとして、酪農教育ファームの活動をスタートしました。以前は幼稚園教諭として働いていた晶菜さんとみちるさん。そのスキルを活かし、小中学生を中心に酪農の魅力を伝えています。
みちるさん「市の瀨牧場の牛は人に慣れていて距離感が近いので、初めての人でも手で餌をあげたり、体を撫でたり、牛と直に触れ合うことができるんです。酪農教育ファームを通して、子ども達の輝く瞳と出会い、酪農という仕事のやりがいに改めて気付くことができました」
晶菜さん「目先の利益だけを考えると、酪農教育ファームを行うよりも、搾乳に専念した方が確実に儲かります。酪農という本業に対して、酪農教育ファームの取り組みは“道楽”のように見られてしまう場合もありますが、今の子どもたちにこの仕事のことを伝えることで、20年後の酪農の未来が変わるはず…そう信じて続けています。みちるが話してくれたように、私たち働き手としてもモチベーションUPに繋がりますし、酪農教育ファームは酪農家にとって“良いことしかない取り組み”、そう思っています」
三者三様の個性で支える牧場経営。牧場に関わる全ての人が幸せであるように
牧場の働き方改革を進めるとともに、酪農教育ファームという新しい取り組みも始め、生まれ変わった市の瀨牧場。経営には三姉妹ならではの絶妙なバランス感覚が活かされています。
実里さん「晶菜は三人のなかで一番責任感が強く、いつも経営全体を見ていたり、対外的な対応もしてくれています。理論派なので、業務効率化のためのマニュアル作りや、生産性を上げるために何をどのように変えていくかも中心になって考えてくれた、頼れる姉です」
みちるさん「実里は真面目で優しく、気遣いの達人。前に実里が『外国人実習生のなかで最近あの子が元気がない。ホームシックかな?』と心配していたことがあって、聞いてみたら原因は虫歯の痛みだった…そんなこともありました(笑)仕事のシフトを組むのは実里の役割。『この子とこの子は最近喧嘩しているみたい』とか『重労働後の疲れている時に危険な仕事はさせない』とか、すごくいろいろなことに配慮してくれていて、私には真似できません」
晶菜さん「みちるは外国人実習生の子達とも年齢が近いので、彼女たちの相談役になってくれる一方で、私たち家族が経営のことで議論するときは、それぞれの話を聞いて最終的にうまくまとまるように橋渡しをしてくれます。牧場の経験は浅いですが、現場の調和を保つために、今ではいなくてはならない存在です」
最後に晶菜さんは、今後の牧場経営の展望を話してくれました。
晶菜さん「私たち姉妹が経営を引き継いでからこれまでに進めてきたのは、牛・働き手・牛乳を飲む消費者・そして、次世代の子どもたちと、牧場に関わる全ての人が幸せになるための改革でした。これからも、いつも支えてくださる方への感謝の気持ちを忘れず、牛に、人に目一杯の愛情を注いでいきたいです。
そして、事業の展望としては市の瀨牧場の牛乳を使った商品の開発も考えているところです。また、将来的には子育て世代の人でも安心して働けるように、従業員のお子さん専用の託児所も牧場に併設することが、私たちの夢です」