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なぜ日本人はこんなに牛乳に親しむようになったの?食文化研究者・東四柳祥子先生に聞いてきた

この記事の登場人物

東四柳 祥子
食文化研究者

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中野 慧
ライター
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こんにちは。編集者・ライターの中野慧です。あだ名は下の名前の音読みでケイです。最近、職場の人たちに無理やり『バチェラー・ジャパン』のシーズン3を見させられています。

こんにちは。編集者・ライターの中野慧です。あだ名は下の名前の音読みでケイです。最近、職場の人たちに無理やり『バチェラー・ジャパン』のシーズン3を見させられています。

それはさておき、みなさんは「牛乳」って好きですか?

僕は子どもの頃、とても身長が低く、「牛乳を飲めば背が伸びる」ということを信じてガブガブ飲んでいたので、今でも牛乳を飲むことが習慣になっています。でも、学校給食で「牛乳は残さず飲まなければいけません」という指導を受けて、それがきっかけで嫌いになってしまった人も、少なくないですよね。

牛乳はチーズやヨーグルト、洋食やお菓子など様々な食品の原料としても使われています。でも、そもそもなぜ私たちの生活に、こんなに牛乳が浸透しているんだろう……?

その理由と歴史を知るべく、今回は大阪・茨木の小高い丘の上にある梅花女子大学を訪れました。

同大学の准教授で日本の牛乳受容の歴史にも詳しい、食文化研究者の東四柳祥子(ひがしよつやなぎ・しょうこ)先生に、お話を伺っていきたいと思います。

▼プロフィール
東四柳祥子(ひがしよつやなぎ・しょうこ)
石川県生まれ。専門分野は、比較食文化論。国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程修了。博士(学術)。現在、梅花女子大学食文化学部食文化学科准教授。
主な著書に、『料理書と近代日本の食文化』(単著)、『日本の食文化史年表』(共編)、『近代料理書の世界』、『日本食物史』、『地域社会の文化と史料』、『日本の食文化 第四巻 魚と肉』、『「国民料理」の形成』、Japanese Foodways Past and Present(以上共著)などがある。

かつて「牛乳は噛んで飲め」と言われていた?

 牛乳の歴史を教えていただく前に、ひとつ気になっていたことを聞いてもいいですか? 今回、牛乳の歴史に迫るために、会社の40代の先輩に牛乳について軽くヒアリングをしたんです。そうしたら「僕らが子供のころは『牛乳は噛んで飲め』って言われてた」と言っていたんです。僕は初めて聞く話でしたし、そもそも「液体なのに噛めるわけないのでは?」と思ってしまいました。周りの人に聞いたら、おおむね40代以上は家族や先生から言われた経験があり、30代以下は聞いたことがないとのことで、世代差がけっこうあるみたいなんです。

 
 私も「噛んで飲め」と言われていた世代ですね。歴史を辿ってみると、その考え方は大正時代からすでに語られていたようです。牛乳に慣れていない子どもたちに向けて飲み方を指南する当時の文献に、「牛乳は咀(か)め」という記述があります。

「牛乳はどくんどくんとひと息に飲むと消化が悪くなるから、大人でも少量ずつちびりちびりと飲みながら噛む真似をして、唾液を混ぜて嚥下(えんげ)するのが合理的である」というようなことが書いてあって。

 
 へぇ、「噛む」っていうのは「消化器に負担をかけないようにゆっくり飲む」という意味だったんですね。

牛乳が広まったきっかけは給食の『脱脂粉乳』

 
今日は「牛乳と日本人」についての歴史を伺いたいのですが、牛乳のイメージって学校給食とすごく強く結びついている気がするんです。そもそも給食はいつごろからあったのでしょうか?

 
 日本の学校給食は1880年代、山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で始まったそうです。当初は、おにぎりと塩鮭と菜の漬物というシンプルなメニューだったみたいですね。大正期以降も学校給食の普及を目指す政府の動きが確認できますが、主に貧困児童を対象としたものであったため、提供を受けた児童は10%にも満たなかったとされます。やはり本格化したのは戦後ですね。

第二次世界大戦中の食糧不足はよく知られていますが、実は戦後の食糧事情のほうが芳しくありませんでした。戦後は復員してくる人も多かったので、ますます食糧が足りなくなってしまったんです。

そんななか、アメリカと日本の戦後処理の話し合いの場で、日本の子どもの栄養不足が話題となり、「日本の未来のためにも、何とか健康にしよう」という想いのもと、学校給食が全国で展開することになりました。そのタイミングで、アメリカからの援助物資である脱脂粉乳が提供されるようになったんです。

 
 戦後にアメリカから支給された脱脂粉乳を飲んでいた団塊世代(※1)の人たちが、口を揃えて「脱脂粉乳は本当にまずかった」と語っていたりもしますよね。

※1 団塊世代:おもに戦後すぐの1947~49年頃に生まれた人たちのことをさす。日本の世代別人口分布ではもっとも人数が多い。

▲戦後しばらくの学校給食は、パン+ミルク+おかずを器に盛る形式で提供された。脱脂粉乳も器に盛られて飲む形式だったのだそう。

 
 当時の脱脂粉乳は、バターを採ったあとに残る液で、アメリカでは馬のエサとして活用されていたものでした。液体のままだと日持ちしないので、粉にして輸出されたのが、「粉乳」になった理由。しばらくして小麦粉がたくさん輸入されるようになると、給食の主食がパンになります。実はアメリカには、「日本人がパン好きになれば、アメリカ産小麦の市場になってくれるだろう」という思惑もありました。その「パンと乳」のセットが今に受け継がれているんですね。

現代の和食と牛乳の微妙な関係

 僕もそうですが牛乳を日常的に飲む人がいる一方、学校給食での体験がきっかけで牛乳に苦手意識を持ってしまう人も多いですよね。

 
 学校給食って、栄養面に重点を置いて献立を決めるきらいがありますよね。私も大学院時代、先輩の手伝いで給食の調査に同行したことがありますが、酢豚、パン、マカロニサラダというユニークな組み合わせのメニューに出会ったことを覚えています(笑)。

 
 そういえば「ごはん食に牛乳」というメニューが多かった記憶があります(笑)。

 
 今は「給食に牛乳を用いるべきかどうか」ということが議論になっていますね。たとえば、新潟県三条市が給食で牛乳を廃止し、代わりに、牛乳や乳製品を使った料理や、チーズやヨーグルトなどの乳製品を提供する動きが、大きな話題になりました。そういった取り組みの背景には「牛乳と和食の組み合わせ方のむずかしさ」という問題があるんです。

▲和食と牛乳……(photo by xiaosan  – stock.adobe.com)

 昨今では、2013年に「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されたことをきっかけに、和食文化の定義再考への関心がますます高まっています。ただ、残念ながら、洋食を好む嗜好に押されて、家庭で食べる機会が減ってきているのも事実。このままでは「和食ってどういうもの?」と問われても、答えられない子どもたちが増えていってしまう恐れもぬぐえません。

 
 たしかに、家庭で「桃の節句」のちらし寿司とか、冬至の日のかぼちゃ料理のような伝統的な和食を作る機会は、あまり多くないかもしれないですね。

 
 先人たちが守ってきた歴史ある和食文化の継承のためにも、学校現場などをうまく活用して、子どもたちが和食について考える機会は作っていきたい。でも、そこに牛乳があると、いくら万能食品とはいっても和食に合うか否かの議論が出てきてしまう。だから最近は、飲み物としての牛乳を、牛乳を使った「乳和食」に代える動きも注目されはじめています。

▲東四柳先生が監修した特殊切手「和の食文化シリーズ」。和食は、ユネスコ世界遺産登録をきっかけに再評価されつつある。(画像提供:日本郵便)

牛乳を使った「乳和食」ってどんな料理?

 その「乳和食」とは、どんな料理なのでしょうか?

 
 和の調味料やだしと牛乳のマリアージュを楽しむ、というイメージですね。牛乳のうまみって、和食の素材としては使いやすいんですよ。普及には時間がかかりそうですけどね。

「学校給食をすべて和食にすべきか」という議論にも賛否あって、「和食の給食を徹底してもいいんじゃないか」という意見もあれば、「給食は世界中の食に出会える場所でもあるから、和食に限るべきではない」という見方もあります。

▲牛乳を原料として使用する和食は、「乳和食」とネーミングされている

 給食から世界の食文化を知る、という部分はたしかにありますよね。

 
 私の体験で言うと、中学時代、給食で初めてビビンパを食べたんですよ。今なら韓国料理だとわかるけど、当時は、友人たちと「南米の料理かな?」「でもごま油が使われてるし……」なんてことを話し合った覚えがあります。最近はインド式の本格的なナンとカレーを給食に出したり、栄養教諭が力を入れている学校だと、献立表に「ボルシチ(ロシア)」、「ミネストローネ(イタリア)」などと書いてあって、どこの国の料理かが学べるように工夫されていたりもしますね。

 
 和食が再評価され、給食が「食育」の場としても注目されているなかで、今まで当たり前に学校給食に存在していた牛乳の存在感が揺らいでいる、ということなんですね。

日本人が牛や乳製品を食べ始めたのはいつ?

 給食以前の話になるんですけど、そもそも日本人と牛乳はいつから関わりがあるのでしょうか?

 
 奈良時代や平安時代の文献には、「蘇(そ)」とか「酪(らく)」とか「醍醐(だいご)」という名前で乳製品が出てきます。冷蔵庫がない時代なので、常温で保存できる練乳やチーズのようなものがイメージとしては近いです。

当時は日常食というより薬用品という感覚で、偉いお坊さんか、貴族など上流階層の人たちが食用する嗜好品だったようです。ところがそのあとは江戸時代まで、乳製品が文献にまったく出てこない。日本人が牛や乳製品を「食べたい」と思うようになるのって、実は明治時代以降なんですよ。

 
 えっ、そうなんですか!?

 
 近代までの牛は農作業などを助け、労働力となってくれる大切な動物「役畜(えきちく)」だったんです。現に私たちはペットの犬を見て、「かわいい」とは思っても、「おいしそう」とは思わないでしょ(笑)。

 
 たしかに……。

▲古来より人間は、牛とともに暮らしてきた(photo by xiaosan – stock.adobe.com)

 ただ、明治時代の日本は「富国強兵」をスローガンに掲げていたので、強壮な子どもを育て、さらに強い軍隊をつくるためにも、滋養のある食材を取り入れなければ、という使命に燃えていました。そこで、西洋医学で評価されていた乳製品を始めとする動物性食品の摂取を、政府が推奨するようになったんです。

しかし近代の文献を見ると、当時の一般の日本人は乳製品に対して相当な抵抗感を持っていたことがわかります。安全な乳製品の見極めができずに中毒を起こすことも多く、命をおびやかす怖い食品というイメージから、お屋敷から逃げ出してしまう使用人もいたようです。乳製品に限らず、牛肉など動物性食品全般にある抵抗感なんですけどね。

 
 いわゆる「ケガレ(※2)」の思想の影響、ということなんでしょうか……?

※2 ケガレ:出産、死、月経、動物食などを忌避する、前近代まで一般的だった日本特有の習俗のこと。古代からの民間伝承に加え、殺生を禁じる仏教の伝来の影響もあって、中世~江戸時代にかけて日本社会に広く深く定着した。

 
 そうですね。ここに大正時代に英語で書かれた『武士の娘』という本の翻訳があります。明治初期に長岡藩の家老の家に生まれた杉本鉞子(すぎもと・えつこ)さんが、明治・大正時代の生活事情について著した大変興味深い本なのですが、この中に鉞子さんの子どものころの牛肉との出会いのエピソードが登場します。

明治14年頃、鉞子さんのお父さまが牛肉の滋養を評価し、「家族みんなで牛肉の汁物を食べよう」と提案するんです。しかし、じき牛肉が届くという時間帯になると、おばあさんは部屋にこもってしまうし、女中さんたちは仏壇に目張りまでしてしまうというありさま。「牛を食べるなんて、ご先祖様に顔向けできない」というわけです。

鉞子さんは、そんなおばあさんの想いを理解しながらも、裏では「美味しかったね」と、お姉ちゃんとそっと話し合ったという、かわいいお話なのですが(笑)。

▲杉本鉞子(著)、大岩美代 (翻訳)『武士の娘』ちくま文庫 https://www.amazon.co.jp/dp/4480027823

 
 伝統との葛藤と同時に、新しい時代がはじまっていく高揚感のようなものも感じられるお話ですね。

 
 それまでタブーとされていたのに、急に「肉を食べましょう」と言われて、かなりの戸惑いがあったはずです。今に置き換えるなら、テレビで大々的に「今日から虫を主食にしましょう」「犬を積極的に食べましょう」と報道されても、すぐに「よし、虫も犬も食べよう!」とはならないですよね。

 
 たしかに、すぐ実行しようとは思えなさそうです。

 
 だから明治政府は、国民に向けて、天皇に牛肉を食べてもらい、皇后に牛乳を飲んでもらって、それを新聞で報道させるというキャンペーンを行います。しかし、牛乳もまた、「得体の知れないもの」とおびえる日本人もたくさんいました。実際、先ほどお話した鉞子さんも、「牛乳屋の子どもには角が生えている」という噂があったことに言及しています。しかし戸惑いと期待のせめぎあいの中で、新しい価値観を持つ人たちが、海外の研究成果に学びながら、動物性食品との向き合い方を模索する動きも本格化します。

食の自由が花開いた明治・大正時代。乳製品・牛乳が市民の食卓に

 ちなみに、冷蔵庫がないと牛乳の保存はできないですよね。だけど電気冷蔵庫が普及したのは、高度経済成長期の1960年代以降だと思うんです。それ以前は、食品の保冷ってどうしていたんですか?

 
 江戸以前は山中で氷を保存する「氷室(ひむろ)」という蔵がありました。ただ、「氷を使える」というのは、お殿様の特権だったんですね。明治以降は「製氷機」が輸入され、使われていたようです。さらに昭和5年になってようやく芝浦製作所(現在の東芝)が国産冷蔵庫の第一号を発表するのですが、一戸建てが買えるくらい高価だったそうです。

電気冷蔵庫が普及するのはおっしゃるとおり1960年代以降です。それ以前は、中が2段になっていて、上に大きな氷を入れて、氷の冷気で冷やすタイプの冷蔵庫が使われていました。

明治・大正時代は、西洋諸国の知識や技術の受容のため、たくさんのお雇い外国人を迎え入れていたんですが、彼らの間でも日本の乳製品の評判はとても悪かった。特に牛乳とバターの保存状態がひどかったようで。

▲高度成長期以前に使われていた冷蔵庫。氷は「氷屋さん」から購入して上の段に入れ、下の段に冷やしたい食材を収納した。(写真提供/所蔵:川越市立博物館

 ちなみに、アイスクリームは明治時代から日本でも大人気だったんですよ。明治時代の西洋料理の名前は、「シチュー」は「雑煮」、「カレー」は「飯のあんかけ」という具合に翻訳されることが多いのですが、「アイスクリーム」などのスイーツは、そのまま使われています。それだけ普及が早かったんでしょうね。家庭での手作りをすすめる書籍なども出版されています。

 
 アイスクリームは明治時代から! けっこう古いんですね。

 
 大正時代になると、キャラメルも人気になります。売れ残った牛乳を煮詰めてつくった練乳を活用して生まれたお菓子なのですが、子供の健康を叶える理想食品として注目を集めます。森永さんのキャラメルのパッケージには今でも「滋養豊富」と書いてありますが、あれは「栄養のある乳製品を使っていますよ」というメッセージなんです。

 
 なるほど、「牛乳を使っているから身体にいい」ということが、当時はアピールポイントだったんですね。

 
 そのキャラメルブームを追い風に、グリコのキャラメルも出てくるんですが、森永さん同様、「栄養菓子であること」を売りにしています。ちなみにこちらは、グリコが発売した当時の「走る人」。

▲グリコの初代「走る人」。時代に合わせてデザインは変わっており、現在のものは7代目(2019年9月時点)。

 たまにネットで「不健康そう」と話題になるやつですね(笑)。

 
 さらにこの時期は、アメリカで栄養学研究が進展して、その研究成果が日本にも本格的に入ってくるようになりました。なかでも特に評価されたのが牛乳。丈夫な骨格づくりに効果的なカルシウムが豊富で、腎臓の病気にも効き目があるなど、「牛乳以上に優れた食品はない」と豪語する書籍も出版されます。またこの頃のアメリカで起こっていた牛乳・乳製品普及運動の影響で、日本でも母親向けの牛乳料理講習会が開かれていたようです。

 
 戦後学校給食の「健康のために牛乳を飲もう」という考え方の原型が、すでに戦前に出てきていたんですね。

 
 明治時代に乳製品について語っている本は、基本的な知識がないと読み解けない専門書のようなものが多いのですが、大正時代には、わかりやすさを考慮した家庭の奥様向けの読み物になっていくんです。牛乳を使ったレシピを含む家庭向け料理書が登場し、家族の健康を維持する理想食品として評価する動きも顕著になります。

 
 「乳和食」の原型のようなものが、現れ始めていたんですね。

 明治時代の牛乳は、母乳の代用品としての価値が期待されることが多かったのですが、大正時代になると育児書等の書籍のなかで乳製品をつかったレシピが提案されたりと、食卓の定番品としての定着を望む動きが出てきます。つまり、「乳製品を摂ろう」という動きは、政府だけでなく民間からも生まれていたということですね。

戦後の学校給食を機に乳製品の普及が大きく進んだのは、そうした前段階があって、明治・大正時代に書かれた文献に知識やヒントを求める動きもあったからなんじゃないかと思います。

牛乳普及のきっかけは戦後ではなく戦前にあった?

▲東四柳先生が収集している明治・大正時代の料理本の数々。

 戦前期の牛乳受容って「富国強兵のために強い身体を作ろう」という身体管理的な発想がきっかけという側面もありつつ、同時にアイスクリームやキャラメルなど「楽しみ」をベースにした食文化も同時に花開いていたんですね。

 
 乳製品が身近になるきっかけとして、お菓子は大きかったでしょうね。常温で保存できますし。今の若い人たちがタピオカドリンクやパンケーキなどのおしゃれスイーツにハマるみたいに、当時の乳製品を使ったお菓子も憧れの対象だったのかなと。

 
 明治・大正時代の乳製品の流入って、日本人の味覚に変化を促したりはしなかったんですか?

 
 明治中期以降、衛生学の泰斗たちによって安全な牛乳・乳製品のあり方が追求されたことで、乳製品は医薬品ではなく、嗜好品として、日本人の生活に定着しはじめました。このとき牛乳が、日本における西洋料理の発展に弾みをつけたことは間違いありません。乳製品が、脂(あぶら)を使った「コク」のおいしさを日本人に気づかせるきっかけになったのではないかと思います。

富国強兵がスローガンとされた明治・大正時代は、「男性は外で働く、女性は家を守る」という価値観が固定化して、「家庭の料理がおいしくないと、旦那さんが外食ばかりして家計が傾く、家計が傾くと国の経済も傾くから、奥さんは料理上手になりなさい」という主張も方々で叫ばれはじめます。

しかしそれだけでなく、家族の健康維持を願う料理書執筆者たちやお母さんたちによって、食にバラエティを求める工夫や家族が食べたいものをメニューに加える心遣いが生まれてくるんです。そのなかに、まだ普及していなかった牛乳・乳製品を取り入れていこうという流れが含まれていたわけです。

家庭での「食」の楽しみ方を振り返ってみよう

 今の私たちの食生活のなかで、牛乳はかつてのような絶対的な存在ではなくなっているんですよね。そう考えたとき、私たちはこれからどう牛乳と付き合っていくことになるんでしょう。

 
 乳製品を健康食品として捉えると、今はヨーグルトの存在感が大きいですよね。お仕事でご一緒する方々に、「普段、健康のためにどんなことをしていますか?」と訊ねると、圧倒的に「ヨーグルトをよく食べますよ」とおっしゃる方の声が多いんです。ヨーグルトの腸内環境への効能に期待を持たれているわけですね。「牛乳は、健康づくりの万能食品」という感覚から、今は「乳酸菌が美容にいい」「腸内細菌を整えよう」という考えに変化してきています。

 
 どうしても「機能」に目が向いてしまうわけですね。

 
 新しい研究成果が社会に還元されることは大変素晴らしいことなのですが、とにかく多くの情報が溢れているので、正しい情報を見極める目はとても大事です。そうでないと、一時的な流行に振り回されるだけになってしまいます。

 
 インターネットだけでなくテレビでも「◯◯が体にいい」という真偽がわからない情報が溢れていて、それに振り回されてワケがわからなくなってしまう、ということはありますね。

 
 
「栄養を摂取する」という考え方に傾きすぎると、本来の食の楽しみから離れてしまう怖さもありますよね。機能ではなく、食材としての柔軟性に目を向けてほしい。そう考えると、牛乳は料理やお菓子に使えて、嗜好品としても楽しめる柔軟性の高い食品だと感じます。近年のカフェブームにおいても、牛乳を使ったおしゃれな飲み物が人気を博しています。牛乳の可能性をあらゆる角度から追求し続けるなかで、新たな定番となる乳和食も生まれるんじゃないかな、と。

だからこそ、これからは是非、過去の時代の食品との向き合い方に学ぶ姿勢を大切にしてほしいと思います。また、それぞれの家庭での楽しみ方を振り返ることも大事です。たとえば中野さんは、牛乳とどう接してきましたか?

 
 うーん、僕は子どもの頃、母が牛乳を冷蔵庫に常備してくれていたのを飲んでいて、一人暮らしの今も、牛乳がないと不安になるのでマメに買うんです。朝、ミルクティーに入れるのと、夜のお風呂上がりに飲むことが多いですね。今日お話を伺って、自分の習慣は戦前~戦後の日本国家の身体管理的な発想に、無意識のうちに縛られているのかもしれないと思ってしまいました(笑)。

 
 私の場合はね、実家にいたころからの習慣で、朝は牛乳とコーヒーを混ぜて飲むんです。本当はブラックが好きだけど(笑)、旅先でも、朝は牛乳の入ったカプチーノやカフェラテなどを求めてしまう。母や祖母が、体調を考えてコーヒーに牛乳を混ぜてくれていたことの影響なんだと思います。

家庭や職場、友人との食事の場などで、過去の食習慣などについて話し合ってみると、自分自身が乳製品とどう向き合ってきたか、一方で自分たちと異なる世代の嗜み方の魅力も見えてきたりします。そうすると、一番居心地のいい向き合い方がわかってくると思います。あるべき姿を外ではなく、自分たちの体験や習慣に求めるということですね。

 
 一人ひとり違う、食にまつわる習慣や体験について他の人と話してみる機会って意外とないですよね。実際にそれをやってみるだけでも、いろんな発見がありそうですね。

 
 どの食品にも言えることですが、多くの情報が氾濫してる時代だからこそ、今一度、思い出の中での嗜み方や利用法を振り返る時間を大切にしてほしいと思います。

最近、海外の料理書でも、家庭で脈々と受け継がれてきたレシピに学ぶことをテーマとしたものが多く見られます。牛乳も乳製品も、日本の食品として確実に根付いたものなので、思い出も一緒に味わえるように工夫することが、新たな定番メニュー誕生への弾みにもなるはず。歴史に学ぶ姿勢こそ、令和という新時代に求められる課題なんじゃないかな、と思っています。