「失敗することなんて考えなかった」女性畜産家として駆け抜けてきた20年
この記事の登場人物
上別府 美由紀美由紀牧場
もくじ
「高校生の頃は絶対牛の仕事なんてやりたくないと思っていた」と笑う上別府さん。鹿屋農業高校を卒業後は横浜の女子大へ進み、情報処理について学んだ。同級生には「普通科」出身と言い、親は「会社員」と隠した。家業を継ぐつもりはまったくなかったという。
今はこの仕事に誇りを持っている。
この20年に起きた一つひとつの話を伺うと、情熱とドラマに溢れすぎていた。圧倒的なパワーと魅力に溢れた美由紀さんの背景からも、鹿児島の畜産の強さが見えてくる。
「一度鹿児島を離れてよかったと思うんです。 都会の通学の満員電車にも慣れなかったですし、一日中座ってパソコンに向かう仕事は向かないなと思いました」 短大卒業間近、祖父が体調を崩したと聞き、冬休みに実家に帰った。
幼い頃から市場に連れて行ってもらったり、一緒に牛の世話をしてきた祖父。 上別府 冬休みの間、毎日病院の送り迎えをする中で、「絶対にこれから畜産の時代がくるから牛をやっていたほうがいい。帰ってきて牛をしろ」と言われ、最初は「牛って老後の仕事だから、歳を取って仕事がなくなったらする」という話をしていたんですが、 そんなに言うのなら、まだ就職も決まってないし、じいちゃんが元気なうちに一緒にやろうかなと思って、「じゃ卒業したら一度帰ってくるね」と言って学校に戻ったんです。 その1週間後に祖父は亡くなりました。
「帰ってきてきばれよ」という最後の言葉を残して、祖父は他界。また元気になると思っていた美由紀さんは大きなショックを受けた。
上別府 私の「帰る」という言葉に安心して逝っちゃったのかなとも思って…だからもう卒業式の次の日に帰ってきました。それで実家に入らせてもらって、ゼロからスタート。 今では自分の進むべき道を早くに教えてもらって本当によかったと思っています。 二十歳から始めて、ひとりで全国の市場を飛び回るなど、さまざま経験していくうちにこの仕事に面白さを感じ始めた。今から20年前。女性ひとりで畜産をやっている人などどこにもいなかった時代。
1頭の牛を手に入れ23歳で独立。 きっかけは北海道の酪農家女性
上別府 北海道の酪農家の奥さんが、もう座って搾るのは足腰が痛いから和牛に変えたいということで、反対する旦那さんに黙って、鹿児島の曽於の市場に和牛を買いに来られたんです。 その時うちで飼っていた、第20平茂という種牛の最後の子牛をどうしても譲って欲しいとうちまで来て、「譲ってもらうまでここから帰れない」と言われて。 父に相談したら、「そんなに言うんだったら譲ってやれ」ということで、売ったんです。
しばらくして、北海道から飛行機のチケットが届いた。「たくさん子どもが産まれたから見においで」ということだった。
上別府 子牛だった牛がお母さんになっているのを見学して、十勝の子牛市場で子牛の販売をして、家畜車に乗せられたんです。もう帰るんだと思っていたらなかなか車が止まらなくて! 聞いたら「今から青森に行くから」と言われて。苫小牧からフェリーに乗り、青森に向かいました。 「青森で子牛市場、翌日には妊娠牛市場があるから行くよ」と聞いて。
当時第1花国という青森で有名な血統の種牛がいたんですが、その子牛から採卵して、受精卵をお腹に入れて妊娠牛になった牛を青森で売るんだと、車の後ろに積んでいました。 当時で言うと最先端ですよね。こっちはそんなことやってるんだととても驚きました。
私も「せっかく行くのなら自分も買いたい」と思って貯金を全部下ろし、子牛市場に行きました。でも第1花国が人気すぎて購買席がもうないんですよね。一緒に行っていた北海道の方が購買カードを貸してくれて、1頭買ったんです。それが最初の自分名義の牛でした。
親には買ってから電話して、「青森で子牛1頭買った」って言ったら「北海道に行ったんじゃないの!?」って(笑) 北海道に行ったんだけどそこから家畜車で青森に行って…って。「え、何!? フェリー!? トラック!?」みたいな。
上別府 鹿児島まで連れて帰るトラックも何も手配していなかったので、九州方面に行くトラックを探したんだけど見つからなくて、どうにか福島までは行くトラックを見つけて、以前実家に研修に来ていた福島の人に連絡して、「福島までなら運んでくれるトラックがいるんだけど、少しの間牛を預かってもらえないか?」とお願いして。
1週間後に九州から福島のセリに入るお客さんがいると言うので、次にそのトラックに積んでもらって10日ほどかけてうちまで帰ってきました。もうガリッガリに痩せてましたね(笑) その時、北海道のお母さんが50歳だったんです。その歳から和牛に変えてやるんだと思ったら、すごいなと思って。
それに刺激を受けて、自分も一緒にスタートだ! と思ったんです。 そこで実家から独立。 「その1頭がすべての始まりでした」
ここまでが序章。 もうこれだけで、映画のようだ。
上別府 自分でも面白いですね、自分の人生が。よくこんなにトントンときたなぁって。 最初は庭に牛をつないでいたんですが、近くの農家さんがやめるというので牛舎を借りることができて。次に同じ町内の農家さんで、病気で急に入院しないといけなくなったということで、牛を預かることになったんです。
親牛が7頭、子牛が4頭ほど。餌や畑も借りられることになって、結局体調が戻らず、そのまま買い取ったんですが、おかげですぐにセリに出る牛がいて、回転させることができました。 その牛を買い取る時に銀行から600万だけ借りられて、それでなんとかやりくりしながら、ですね。
当時って今のように政策金融公庫が無利子、保証人なし、担保なしで貸すということはなかったので、銀行に計画書を出して、なんとか2年間で600万円を返済しました。 最初は獣医師をしている姉の元で助産や去勢の助手としてアルバイトをしながら。でも借りた牛舎に1年分くらいの牧草も入っていたので、それも随分助かりました。
人に恵まれ、皆が応援してくれた 牛舎もゼロから手作業で
上別府 ちょうどその頃、牛舎も建てていかないとなと思っていたら、父の友だちが、「牛舎を建てるんだったらうちの山の木切っていいぞ」と言ってくれて、おじちゃんたちに手伝ってもらいながら山の木を切り、トラクターにワイヤーをつけて引っ張り出してみんなで運んできました。
餌やりや管理、バイトの合間に皮剥ぎをして。 それが25歳の時。まだ20頭ほどで、25頭くらい飼えたらいいなと思っていました。 女性で珍しかったからか、結構みんな応援してくれて、すごく人に恵まれたなと思います。 まさかこんなに頭数を持つとも思っていなかったし、自分でも今牛舎を回りながら、“これが本当に自分の牛舎!?”とびっくりしたりします。
今は10倍以上になっていますね。 現在は繁殖雌牛340頭、子牛200頭ほど、種雄牛2頭、犬5匹、従業員5名、パート1名という大所帯だ。
前だけを見て、無謀とも言える チャレンジを重ねてきた
上別府 32歳の時に、近くの平松畜産の社長に声をかけてもらって、大分の農家さんで、台風に牛舎がやられたのでもうやめるらしいので、牛を買わないかということで一緒に見に行ったんです。 「親牛を5頭譲ってやるから運転手で行かないか?」って。
行ってみるとお母さん牛は大分の血統だったんですが、お腹の中に安福久の受精卵が入った牛がたくさんいて…! うちと同じように電気を流して放牧していて、スタンチョンも知っているし、牛も大きい…5頭と言ったけどもう少し欲しいな…と思って。
親が全部で37頭ほど、子牛25頭ほどいたんですが、「お金はないけど全部欲しい」と平松社長に言いました。社長には妊娠していない牛をあげるから、私は妊娠牛と子牛が欲しいって(笑)
…それはまた無茶な交渉ですね(笑)
上別府 「本当に買うのか?」と聞かれたので、「うん、お金はないけど買いたい」と言ったら銀行を手配してくれて。 …平松社長もめちゃくちゃ男前ですね。上別府 そうなんです。公庫から「個人で3億まで大丈夫です」と言われたんですが、怖すぎるので1億借りて、大型4車分、1日で引っ越ししました。
牛舎もない状態だし、親にはまたもや事後報告。いきなり家に4車分入ってきたので「どうした!?」と言われて、「農家さん1軒分買ってきた」って…。 ひとまず電気を流していたら出て行かないのを見ていたので、放して。子牛は通路とかに全部柵をして入れて。人工哺育だったので、哺乳瓶を10個くらい買ってきました。
…美由紀さん、すごいパワーです。
上別府 親兄弟もびっくりしていましたね。 そもそも私が牛をすることについては「考えが甘い」と言われて猛反対されていて、じいちゃんがお金で苦労していたこともあったので、毎日家族会議でした。いくら銀行が貸すと言っても当時は保証人がいないと借りられなかったので、父が印鑑を捺してくれたおかげで何とかなりました。
…今振り返って、その時の決断は、正解だったと思いますか?
上別府 正解だった!(即答) 運転資金6500万と残り3500万を設備資金にしたんですが、運転資金は2年据え置きの5年返済をしました。タイミングがよかったんです。いつも大きな返済の時は相場がよくて。だから払えたところはありますね。
…「やりたい」と思った時にまず動いて、方法は後から考えるという前向きさが本当にすごいです。だからみんなも助けてくれたんだろうと思います。
上別府 どうなんでしょう。 でも今は、自分はこの仕事をするために生まれてきたんだなとは思います。 だから今の畜産のイメージを変えて、女の子たちが働きやすい環境を作って、後継者不足にならないようにしていきたいと思っています。
今は女の子も増えてきたので、次はどうしたらこの状況を楽しみながら続けてくれるかなということを考えています。 美由紀牧場の従業員も女性が多いですし、SNSで全国の女性の畜産家と連絡を取り合っています。今夜もふたり女の子が遊びにきますよ。
改めて、美由紀さんの思う 「鹿児島の畜産の強さ」について聞いた。
上別府 畜産が根付いた“環境”がある、ということも大きいのかなと思いますね。 ここでは昔から家の庭に牛がいて当たり前の生活だったんです。特に親の世代だったら外で働いていても庭には牛がいる、という感じで。家と別に牛を2、3頭つなげる瓦屋根の倉庫みたいなのがどこの家にもありました。畑仕事に使っていたんです。
私も最初の1頭を庭につないでいましたが、じいちゃんによく言われていたんです。「庭に木を植えておけ」って。そうすれば、その木の数だけ牛を飼えるからって。 もともと貧乏生活をしていたじいちゃんなので、知恵で乗り切ってきたんですよね。
雨が降ったらブルーシートを張って、とか。牛舎がなくても木があれば大丈夫って。 そういう2〜3頭飼いの農家さんが今でもいらっしゃいますね。 ただ、そういう農家さんはすべて手作業なので大変で、後継者が減ってしまったのはそれが原因かなとは思います。今はすべて機械化されて、またやる人が増えてきたという流れはあります。
…新規就農を目指す方への支援も整っていますか?
上別府 2年間研修したら3年目から独立できて、市が空き牛舎も探して契約までしてくれたり、国の政策公庫からの資金(3,700万円)借り入れの手続きまでしてくれるので、新規就農にはとても手厚いと思います。
上別府 全共は5年に一度なので、出したくてもタイミングよくそれに当てはまる牛がいないといけません。今回の出品牛は、たまたま廃業する農家さんの牛で条件に合う牛がセリに出るということで、農協の技術員の子から「セリに出てるけど、買っていい?」朝電話がかかってきたんです。「買っていいよ」と言って、その日から1頭飼いを始めました。 高校の後輩でもあるんですが、その子が毎日来て一緒に世話してくれています。
私と父が元気なうちに全共に連れて行きたいと言ってくれて。全共はみんなで協力しないとやっていけないので、農協の技術員も役場も、みんな一生懸命です。私たちは“チーム肝属”と言っていますが、その団結力は他の地区には負けないなと思います。 10月の全共では仲の良い畜産女子みんなで集まってブースも出すんです。 とても楽しみですね。
20年前、仕事を始めた時は「女性のくせに」「いつやめるかわからない」と言われ、市町村から新規就農者資金に反対する意見もあったという。
この20年を振り返り、 美由紀さんはこう話す。
上別府 若い時は不思議と「できない」と思わないんですよね。失敗なんて考えないで、やることだけ考えていた。だから今、私のもとに「迷っている」と相談しに来る子には、「それはやる気がないだけだよ」と言います。本気じゃないだけ。 後悔しないためにはやりたいことをやったらいいし、やりたいことをやったら後悔にもならない。一度きりの人生だからみんな楽しもう、と思います。
やりたいけどやれない人もいるしね。 こうして前を向く美由紀さんの姿に、どれだけの人たちが背中を押されているのだろう。 この春、美由紀牧場に転職してきた沖縄県石垣島出身の松川優梨亜さん。 農業大学生時代に宮城全共で鹿児島が1位になったのを見て、鹿児島に来たという。同じ女性として生き生きと働く美由紀さんは「尊敬しているし、憧れ」だと力強い笑顔を見せた。
シリーズ最後は、美由紀さんを若い頃から見守ってきた平松正弘社長率いる平松畜産を訪れます。サッカーで言うところのブラジル…鹿児島の威力の最終編です。