第4回農高アカデミーレポート! 「新規就農の厳しさ、乗り越えてきた心構えとは?」
No.341
つながる
自然卵養鶏法で作られる「相馬ミルキーエッグ」が全国的に人気の、大野村農園。
育てた農作物をにわとりのエサに、にわとりのフンを堆肥にすることで、人工物や農薬を一切使わない循環型農業と呼ばれる仕組みを採用しています。将兵さんと妻の陽子さんを中心に、ボランティアスタッフ何名かで運営する家族経営の農園です。
代表の菊地将兵さんは、野菜の栽培や養鶏の他、子ども・大人の向けの食育イベントを開催したり、スタッフとして不登校の学生を引き取ったり、「農家」の枠を超えた多彩な活動を行うことで知られています。
かつて漫画家を目指していたこともあるという菊地さんは、何がきっかけで養鶏家を目指し、ご自身の地元である福島県相馬にて大野村農園を設立することになったのでしょうか?
菊地将兵さんのこれまで、そしてこれからについて伺います。
菊地さんが農家を目指すことになったのは、東京で出会った貧困問題がきっかけ。
ご自身も決して裕福ではなかったものの、野菜や米を祖父母が作っていたことから、「食えない」という状況に出会ったことがなかったとのこと。また、貧乏で不幸だと感じたこともなかったと菊地さん。大都会で「食えない」と貧困にあえぐ人がいる状態が異様に思えたといいます。
「仙台のマンガの専門学校を卒業して、漫画家になりたくて東京に出てきたんです。なんとなく貧困問題に興味があって、そういう題材で書いてみたいって意識があったんですが、東京で暮らしてみると、自分が感じていた貧困と都会の貧困は少し種類が違うぞということに気がついたんです」
田舎の貧困と都会の貧困の違いは何か?
都会の貧困問題に対して強い関心を持つようになった菊地さんは、万引きGメンのバイトと炊き出しのボランティアをはじめ、貧しさと闘うさまざまな人と関わり合いました。
その中で、田舎と都会の違いとして「心の貧困」が関係しているのではと感じたとのこと。
「万引きしたものを持ってトイレに入って過食嘔吐する女の子とか、万引き犯で弁当を食べてくださいって500円渡したらボロボロ泣き出した30代半ばの人とか、みんな本当に追い詰められている方ばかりでした。そういう方々を見ていると、お金よりも心が貧しくなっているんだなって思いました。誰も頼る人がいないというか、田舎の何倍も人はいるけど、誰ともつながっていないんです」
都会の貧困問題を目の当たりにして、それでも腹いっぱい食べることができれば、生きつなぐことができるのではと考えます。いつしか、漫画家という目標から貧困を救うための方法について考えるようになっていったとのこと。
「炊き出しの分だけでは足りなくて、自分の家の米でおにぎりを作って配ってました。それでも足りないときは、田舎のばあちゃんに頼んで送ってもらうんですが、それもすぐになくなってしまう。どうすれば良いのかと考えていたとき、ある日炊き出しに岩手の農家さんが来て『ウチの米を使ってくれ』って、どかっと米を置いていったんです。それがすごくかっこよくて、あーこれだなと。答えは自分のじいちゃん・ばあちゃんがずっと前からやっていたことだったんですよ」
「自分で作ることができれば、より多くの人に食べ物を届けることができると思ったんです」と菊地さん。
その後、バイトも炊き出しのボランティアも止めて、農家になるため日本全国の農場を渡り歩きます。
全国の農場をめぐり、大野村農園を作ったのは震災直後。なぜ菊地さんは、津波によってすべてが流され、風評被害のうずまく過酷な環境での就農を選んだのでしょうか?
漫画家から一転、農家という新しい道を歩み始めた菊地さん。
群馬・香川・福島・三重・茨城・栃木など、住み込みで働ける農場をめぐり、農業の基礎を学びます。3年間の修行の末、就農のための資金を貯めに東京に戻った3ヶ月後、あの震災が起こります。
「地震があって、テレビを見たら地元が津波に流されている映像が流れたんです。幸い家族は無事だったのですが、しばらくは連絡が取れませんでした。道も通じなくて、やっと帰れたときにはもう5月になっていました。その頃には地元でやろうって決めていました」
親・祖父母・お世話になった農場の方々、菊地さんの「相馬で就農する」と意見には全員が反対したといいます。そんな反対を押し切ってまで、この地で就業を決めた要因は何だったのでしょうか?
「他県を見てきたからこそ、ここでやらないのは宝の持ち腐れだって思ってました。良い土があるし、この地域は福島でも雪の少ない地域です。放射能が出るかもしれないって状態だったけど、ここでやらなければ一生後悔すると思って、みんなの反対を押し切って新規就農したんです」
震災からまだ数ヶ月、そもそもこの場所で新規就農する人がほとんどいない状態であったため、市役所に行って新規就農したいと申し出たところ、係の人に「新規就農って何ですか?」といわれたとのこと。
当初はお金も機械もなかったため、米農家でバイトしながらバイト代をすべて注ぎ込み、大野村農園をはじめました。
「野菜からはじめて、養鶏をはじめたのは3年後からです。農業っていうのは、はじめの1年は必ず失敗するんです。やっぱり、その土地の土の質とか気候とかを把握できていないので。3年かけてようやく形になってきて、その間に自然用鶏卵をやっているところに修行に行ったりしながら、じょじょに形になっていきました」
野菜のビニールハウスも、鳥小屋もすべて菊地さんが自分の手で作ったとのこと。現在では年間30種類以上の野菜を作り、にわとりは300羽にまで増加。「あの状況で新規就農ってのは、日本で一番厳しい状態だったんじゃないかと思う」と笑う菊地さんですが、当時の苦悩は、私たちに計り知れるものではありません。
今や全国から注文が殺到する「相馬ミルキーエッグ」。
値段は高くとも、このようなブランド卵を作り出したのには、菊地さんの戦略がありました。
「今は全国的に東北の野菜を購入しようという動きがあって、一定の収入がありますが、これはいずれ終わります。そこで、スーパーに他県の野菜と相馬の野菜が同じ値段で並んだら、まず勝ち目はないだろうと。だからこそ、みんなが食べるもので圧倒的なものを作ろうと思ったんです」
誰もが頻繁に食べるもの、それを考えた末に行き着いたのが養鶏でした。循環型農業と自然卵養鶏法による完全なオーガニック卵であるこの製品は、噂が噂を呼び常に品切れの状態に。
「相馬の漁師が編集長をやっている、生産者を取り上げる雑誌『そうま食べる通信』に取り上げてもらったり、地元の人が頻繁に買いに来てくれるようになったり、少しずつ知られるようになってきた。相馬は第1次産業の人たち同士の横のつながりが強くて、みんないろいろサポートしてくれるんです。ありがたいことにテレビでも取り上げてもらって。なんとかやっていけるようになってきました。」
昨年には、福島産業賞でもっとも地位の高い金賞を受賞。高級旅館などが卵を使いたいと申し出てくるようになり一気にブランド化が進んだとのこと。
今後については、子ども大人を対象にした食育を積極的に行っていく他、現在の300羽から倍の600羽に増やすなど、さまざまな計画が進行中。今後さらに多くの場所で「相馬ミルキーエッグ」が見られるようになるでしょう。
また、現在ワンパック830円で販売される相馬ミルキーエッグ。その売り上げの一部は、国内の母子家庭・父子家庭・施設の子どもたちの所へ、現金ではなく食料で届くようになっていると菊地さん。現在行っているさまざまな施策と合わせて、農家を志した際に抱いた「農家になって食料を届ける」という目的を確実に実行に移しています。
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